先日、にゃーと付き合う前から「行ってみようか」と話していた「国家人権博物館」(白色恐怖景美記念園区)へ行ってきました。
2月28日
台湾は日清戦争〜第二次世界大戦まで日本に統治されていました。日本の敗戦の後、中国大陸から国共内戦(国民党VS共産党)に敗れた国民党軍が台湾へ押し寄せ、統治を開始。
国民党による統治は腐敗や汚職が横行した統治に不満を持った台湾の人も少なくなく、一触即発な雰囲気が漂う中、シングルマザーの女性が路上で闇タバコを販売していたところを取り締まられました。土下座して謝罪をするも、商品没収だけでなく、その時の所持金まで没収され、殴打されました。その女性に同情した台湾の人が集まると、取り締まり官たちは民衆に向かって発砲し、何の罪もない人が殺されてしまいます。
今でも台湾は2月28日は休日で、この日のことを忘れないようにしています。
38年間の戒厳令
その事件で終わり、ではありませんでした。国民党は台湾の人の反乱を恐れ、38年もの間戒厳令を敷きました。台湾国民に監視と密告を強制。密告された人が送られたのが、今回にゃーと行った人権博物館(当時は刑務所)でした。
ここが入り口です。鋼鉄線も当時のまま。
面会室。電話で話す形で、すべての会話が隣の部屋で録音されたそうです。
4畳半ほどの広さでしょうか。この中に6人ぐらいが詰められ、座ったまま寝る生活を強いられたそうです。右の写真は、当時の人が自分で作って使っていた、机、寝具だそうです。
長い廊下に部屋がたくさんありました。足にはめられる拘束具が展示されていて、体験してもよいとなっていました。
日本語で書かれた日記と俳句
日本の統治は50年続いていたので、日本語を話せる人が多く、展示されていた日記や俳句の中には日本語で書かれているものもありました。
1951年に処刑(銃殺刑)された方の遺作です。
愛する奥さん(素秋さん)のことを書いた日記です。
「できれば素秋と唯2人だけの世界が欲しいのだ」という部分に線が引かれていました。
一個人の小さな願いも叶えられない時代が38年も続いた台湾。台湾にはご年配の方で日本語が流暢な人がまだまだいらっしゃいますが、この38年を体験された方々なのですね。
以前担当したクラスに来ていたご年配の方で、日本語のフルネームを名乗る方がいらっしゃいました。「日本の時はこの名前だったんです」とおっしゃっていました。
日本時代とその後
ここへ行ったことをにゃーの両親と話すと、お父さんとお母さんは戒厳令下の台湾では医者などのエリートが標的にされたと教えてくれました。エリートの人が民衆を束ねて反乱を起こすことを恐れたそうです。たくさんの知識人が難癖をつけて投獄され、中には処刑された人もいたそうです。
台湾には今でも人口の割に医者が多いと感じるのですが、日本時代は台湾人は日本の政府関係の仕事ができなかったそうです。だから、一生懸命勉強して、日本人よりもいい成績をとった人もたくさんいたと思いますが、医者になる選択をした人が多いそうです。
結果、彼らは白色テロの犠牲者となりました。
日本では台湾を日本が統治していたこともさっとしか授業で扱われず、228事件のことを知らない人がほとんどだと思います。
この博物館へ行って、台湾のほとんどの博物館に日本語のガイドが置かれているのに、ここには犠牲者の人が書いたものを除いて、日本語がありませんでした。
日本人の観光客は来ていないことを表していると思います。楽しい旅行に来て、楽しい気分になる博物館ではありませんが、日本人は「日台友好」と言いながらここから目を背けていていいんでしょうか?
この博物館に日本人観光客も足を向けることが増えて、日本語のガイドがいつか置かれることを願います。
まとめ
今回はちょっと重たいテーマを扱いましたが、いつか書こう、書こうと思っていてなかなかきっかけがありませんでした。
台湾と日本の関係をいろいろ知って、学校で教わっていないことは実は何も知らない自分に気がつかされます。
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